私が落語と言うものを聴き始めたのは昭和の高度成長期と言われたころで東京の落語界に真打が百人に満たない時代だった。
しかしそこには志ん生、文楽、圓生、金馬、柳橋、小さん、馬生、志ん朝、談志、柳朝、三平、歌奴と名だたる真打が並び寄席は煌びやかだった。
だから落語家の真打の名前は全部知っていたし二つ目の落語家もほとんど知っていた。前座の名前も名だたる師匠のお弟子さんはだいたい知っていて、寄席に行って活きの良い前座が居ると名前をメモしてどんな噺家に育つかと楽しみのひとつにしていた。
あのころ前座さんは八年くらいやってる子もいて落語家の修業とは厳しいものだと本当に思ったものだ。近頃では五年を目途に二つ目になるようだが、感染症拡大の影響で駒平は六年近く前座を務めたようだ。
しかし考えようで三年半ほどで二つ目になった噺家を何人も知っているが今をときめく噺家たちに前座の修業の短い噺家はあまりいない。
前座時代に懸命に二つ目を目指し稽古して二つ目昇進と共にその力を一気に爆発させた噺家が売れっ子になり重厚な高座を務めているように感じる。
私が初めて駒平の高座を見たのは大学を卒業して役者だった佑樹丸時代の駒平だ。浅草東洋館で開かれた「天狗連」の会で聴いた「夢の酒」が最初で、素人としては、「おっ」と気を引く喋りだった記憶がある。
大学で演劇を学んでいたので発声が出来ていたのかもしれない。何かを探すために落語を覚えてみたのがその一席だったそうだ。
暫くして世之介の会に同じ顔で「駒平」と名乗る前座が入った。駒平は師匠世之介が二つ目時代に売れた名跡だ。その名を貰ったのだから師匠からもかなりの期待を受けているに違いない。
ところが寄席に立ち寄ると、私の行くときに限って『道灌』ばかりの高座に当たった。『道灌』しか聞いた事がなかったかもしれない。もしかしたらネタは道灌しか持ってないのかと思って当人に聞いたことがあった。
すると「寄席では道灌しか掛けないと決めてます」と言いはなった。
「何故」と聴くと駒平は「前座で道灌がウケたら本当に腕が上がった証拠だと師匠に言われました。師匠も道灌ばかりをやっていたと聞いてます」と言われた。
実は駒平のネタの数は五十を超える。そこには「明烏」や「へっつい幽霊」など真打が喋るネタも多く含まれている。にもかかわらず「道灌」。
しかしその稽古はしっかり実を結んでいる「鈴ヶ森」「金明竹」「やかん」「垂乳根」など他の噺をしゃべった時、その実力は真打を前にする二つ目ほどの力量を感じさせた。私だけでなく各所でその評判を聞いた。すでに前座でお茶を濁す域を充分に超えている。
実力の基礎は備わった。そして晴れて二つ目。ここからは一人前のプロの噺家となる。
大切なのは人気もその一つなのだ。これは当人の努力だけでは中々伸びてくるものではない。お客様のご贔屓が大切なのだ。
これから人気実力ともに本物の噺家に育つ第一歩の昇進初の独演会。この「浅草東洋館」を満杯にして世間に金原亭駒平ここにありの叫びを轟かせてほしい。
演芸評論家 室輪まだこ