金原亭杏寿が二つ目に昇進して早四か月である。毎月根多下ろしの落語会を開くというので、私も応援しなければと裏面の執筆を請け負った。二つ目早々の落語会であるから落語協会二階の「黒門亭」は私も手頃な会場と思っていた。
初回のチケット完売。これは二つ目ご祝儀としてお付き合いだから良く解るが五月の会のチケットが連休前に完売してしまったのには驚いた。
根多下ろしの一回目は「幾代餅」二回目は「死神」である。真打ちがトリでかけるような大根多の根多下ろしのチケットが完売である。杏寿へのお客様の期待がうかがえる。
その第一回目の「幾代餅」。私もどのように杏寿が花魁を演じるか実は密かに期待していた。女性落語家たちの先輩である「こみち」「桃花」「つる子」等が、新たな女性目線での女性の心持をそれぞれどう描いて表現するのか、巷で話題になっているからだ。
しかし、杏寿の「幾代餅」は至って古典の本寸法な演出であった。だが聴き終わって見れば「実に良かった」。聞き終えた後の心地よさはまさに落語ファンとしての私を満足させてくれたのだ。
そう言えば世之介から女性の噺家がどう落語と向き合ってゆくかについて聞いたことがある。
「我々は男ですからどう女性を演出するかいつも悩んでいるんですよ。色気を持たせる為に踊りの稽古をしたりしてね。文七元結の佐野槌の女将なんかどう描くか悩んで、志ん朝師匠の家で一晩そんな事を真剣に話したことがありましたよ。
異性をどう演じるかが噺の機微だと思うんです。だから女の噺家が悩まなくちゃいけないのは男をどう演じるかですよ。そこを悩まなくちゃいけない。女はそのままの了見で、あまり演じる必要はないと思ってるんです。なまじ演出し過ぎると芸がクサくなる。花魁を演じるならその了見になればそれでいいんですよ」
そう言っていたのを思い出した。
杏寿の「幾代餅」はその清蔵が生き生きしていたからこそ、幾代太夫が神々しく見えたのかもしれない。良く稽古した高座であったのは言うまでもない。見ていて清潔感を感じたのは私だけではなかったろう。
「死神」そして今回は「青菜」どんどん男主体の噺に挑戦していくようだ。お客様は期待してチケットを買ってくれている。その期待に懸命に答えるよう、あがいて欲しい。その真剣な高座が我々を引き付ける魅力になって行くはずだからだ。チケットの取れない落語会と言われ天狗にならず真摯に落語にむかって欲しい。
さて今回の「青菜」季節に合わせて選んできたのだろうが、たかが鸚鵡返しの噺と思ってはいけない。こう言いう情緒をゆったりと聞かせる噺が実は難しいのだ。
杏寿の大師匠金原亭馬生の「青菜」は今思い出しても名演であった。その頃「青菜」の芸は先代小さんと二分していたと思う。杏寿がどう料理してくるか楽しみでしょうがない。
余談であるがこの「黒門町で逢いましょう」のチラシのデザインは好きだ。大正ロマン調のデザインと毎回各所に隠された遊び心。死神のデザインにはさり気ない火の玉が隠されて居たり、今回は「青菜」にちなんでサゲの「弁慶」を感じさせる「弁慶格子」のバック柄。
杏寿がリクエストしているのだろうか?実は落語もデザインだと思っている。気が付かないようなカ所の細かな演出が噺を大きく左右している事に気がついて居るならまだまだ杏寿は大きくなるはずだ。今度はチケットを早めに予約しようと思っている。私も金原亭杏寿のファンのひとりになりつつある。
演芸評論家 室輪まだこ